修業時代

適塾

洪庵の著作

医学者「洪庵」

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管理人:ミホノコウアン
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適塾開業

適塾という名が現代では一般的に伝わっている名前ですが、正しくは適々斎塾といいいます。適塾や適々塾というのは、この適々斎塾を略したものです。
この適々斎塾の名前の由来ですが、これは洪庵の号が適々斎であったことからきています。ちなみに、適々というのは荘子が著した書物(太宗師篇)にある
「人の適を適として、自らその適を適とせざる者」
という言葉から取られています。前後の文章を含めた意味としては、"人からどうのということではなく、自分の信じた道を進んでいく"という感じになります。

塾開業時、洪庵はまだ29歳、妻の八重も17歳という若さでしたが、大阪では天游に、そして江戸では坪井信道やその師、宇田川棒斎という、当時としては蘭医学の大家に教えを請い、さらに彼らから高く評価されていたということもあり、洪庵から教えを受けたいと願う人はかなりたくさんいたようです。

塾開業から5年後の1843年、より広いスペースを求めて、塾は今残されている場所に移転しますが、それでも多くの書生(塾生)を収容するにはまだまだ手狭だったとの記録が残っています。ちなみに、この移転先の塾は、天王寺屋という商人の家を買い取ったものとのことです。
洪庵が江戸に立つまでの25年間の間に、約3000人前後の門下生がいたという話もありますから、当時の塾としては出色の人気ぶりだったのではないでしょうか。

さらに、洪庵の適塾が今日まで語り継がれるには、その門下生たちの活躍ぶりがあげられます。


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